Special Feature
2024.08.10
大きな波に飲まれずに、たしかな関係を喜ぶこと――夜間のみの仮設“展”舗「CCMS experiment OBON」コヤマシゲト&草野剛インタビュー
同人文化のコンテクストと「民藝」
──今回の「CCMS experiment OBON」のテーマのひとつでもある「民藝」について教えてください。
コヤマシゲト:ニューヨークのアートギャラリー・NowHereで行った「SHIGETO KOYAMA CCMS experiment OBAKE」が、そのアイディアの生まれるきっかけになっています。アートプロジェクトという企画に対して、僕らはあくまでエンターテイメント業界の人間だし、CCMSの活動となにを結びつけられるだろうと考えていたところ、草野さんから「民藝」がいいんじゃないかと提案していただいたんです。
草野剛:本来、柳宗悦の提唱した「民藝」は、実用性と美しさの調和とか、無名の職人の手仕事とか、素材の尊重といったことに対して用いられた言葉ですけど、CCMSの活動とつなぐにあたって僕が重要だと思ったのは、地域性と伝統という観点でした。オタクというのはカルチャー的なトライブでもあって、ある種の地域性と伝統を持っていると考えたんです。
まず、マスプロダクトとしてのアニメやマンガ、ライトノベルがあり、その二次創作を行う同人活動というものがある。僕とコヤマさんはいわば一次創作の場で出会っているんだけど、その後親交を深めていくのは二次創作の場であるコミケでした。
でも、そこで「おばけちゃん」という新たなコンテンツが生まれてきた。「おばけちゃん」はオリジナルだけど、コヤマさんがガイナックスやカラー、TRIGGERといったスタジオで経験されたことが詰まっていて、実際に僕らが影響を受けたコンテンツや二次創作的なメタファーが散りばめられています。もうこうなると、マスプロダクトでも二次創作でもない、よくわからないものなんですね。それがいろんな形でプロダクトになって、アニメになって、ニューヨークにも展示されることになる。
オタクの地域性と伝統みたいな文脈において成り立つものが、社会と繋がってしまうことって、今や珍しいことではないし、むしろ連綿と続いてきているんじゃないかと思うんです。たとえばゆうきまさみ先生や出渕裕さん、それから庵野秀明さんもそういう人物の一人なんじゃないかと僕は思う。
それに、コミケだって100回以上開かれて、50年近くも続いている。コミケという場所は本質的に、一次だろうが二次だろうが、誰かが誰かと関係するために創作し、リスクを負って自費出版されたものが大量に並ぶ場所なわけですよね。それって声なき人々の物語なんじゃないか、という気もするんですよ。
──ある意味、オタクカルチャーの地域性と伝統の外部にあるニューヨークから逆照射されたコンセプトだったんですね。また、二次創作のような文化を、垂直的で連続的なものとして捉えることには新鮮な感覚もあります。
コヤマシゲト:無名の職人たちがみんなの生活をちょっとでも良くしようとして作った道具が、連綿と続いて「民藝」とされるのだとしたら、それって結果論のようなものなんじゃないかと思うんです。オタクカルチャーにおいても、可視化されずに連続するコンテクストが確実にあって、みんながそれを体感的に把握したうえで一次にしろ二次にしろ創作しているんですよね。
草野剛:それから、そのコンテクストの内部で、本やTシャツやアクリルのチャームを所有することが、オタクにとっては生活周りのものとして機能するんですね。つまり、自分がどういう人間なのかを示すメディアとして、身の回りに配置していくもの。これって、コミュニケーションを媒介する道具として実用性がありますよね。だから簡単に作れて簡単に発注できるアクリルは、オタクにおける民藝的な素材なんじゃないかということも思うんです。
大事なのは、社会の中で大きな波に飲まれずに、ある種の交換価値を介して小さな関係を結び、ほどよく暮らしたい、っていうところなんじゃないかな。僕はオタクのマス化やそれに伴うインプレッション主義みたいなものに対して、否定するつもりはないけど、思うところはあって。マスから二次へ、二次から個へ、個からまた引き上げられてマスへ拡大していくという流れへのカウンターの意識もちょっとあるんですよ。そうじゃない、市井の人々のコミュニケーションの場としての側面があるわけですから。
──まさに民衆的な工藝としての「民藝」ということですね。CCMSのマスコット的な存在である「おばけちゃん」も非常にラフな造形をしていますが、そこに民衆の集合意識的なものというか、たとえば誰かのノートにスケッチされたイラストのような印象を覚えます。
コヤマシゲト:日本のオバケには足がないけど、僕らの中でオバケといったらQ太郎だろうと、実はかなり二次創作的なコンテクストで作られたのが「おばけちゃん」ですが、昔の文献や絵画を見ても、布を被ったようなオバケって存在しますからね。それに検索してもらうと分かるんですけど、「おばけちゃん」という名のキャラクターはたくさんいるんですよ。誰でも思いつくような安直な名前なんです(笑)。
そのせいか、初めてCCMSの「おばけちゃん」を見たのに昔の絵画をみて「これ"おばけちゃん"じゃん!」と言い当てるような人もいて(笑)。僕らの後出しの「おばけちゃん」から、時間を超越した「おばけちゃん」が発見される、みたいなことが起きているのは面白いですよね。
──エンターテイメントの文脈で生まれたキャラなのに、版権物らしからぬ一般性を帯びていると。
草野剛:もはや誰のものでもない感覚はありますね。そもそも「おばけちゃん」のデザインにも、何かを伝えようとか、いいねを稼ごうといった考えがほぼないんですよ。それが問題なんだけど……「おばけちゃん」稼いでくれないから(笑)。
でも話は戻って、儲かるかどうかじゃなくて「おばけちゃん」という関係性が重要なんです。今回New Galleryでやらせてもらうことになったり、今日のこのインタビューの場が用意されたりするように、「おばけちゃん」と唱え続けることで、人と会う理由が生まれちゃう。それが一番コアなコンセプトなんじゃないかな。なので安直でいいのかもしれないよね、ひょっとしたら。